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旅人文化振興会メンバーのトシリンの海外協力隊時代(’86〜’88)の中米の旅です。
この旅行記風文章は、トシリンが商社員として台湾・中国など頻繁に出張生活を繰り返していた頃 海外での活躍を目指しはじめていた同僚の社員にあてて書いたものです。

世界が君を待っている

第一夜 初日「一人旅の思い出」

一人旅で一番想い出深いのは、協力隊時代に3週間の休暇でさまよい歩いた グァテマラ・メキシコの旅です。今ではそんなに長い旅をするチャンスは永遠に 失われてしまいました。知らない土地を一人でさまようのは、好奇心を満たしてくれる 興奮と、誰も知る人のいない寂寥感? チョット違うな孤立感とでも言うのでしょうか? が両方つのります。

短い旅でしたが結果として、ボヘミアンのような生活は僕には向いて いないんだなと思いました。それまでの僕の美学の中では、アルチュール ランボーのように 世界中をさまよい見知らぬ国で死んでいく人生と言うのがかなり上位にあり、そうゆう 妄想にそった人生設計を考えたりしてました。デラシネ(根無し草)生活を計画しちゃうあたりで 既に不適格なのですが・・・・・。

旅は、グァテマラ・シティーから始まりました。どうせ休暇とは言え金の無い僕は 「地球の歩き方」が唯一のガイドブックで一泊$10以下のペンションみたいなのに 宿をとります。

旅の本質ってなにか?と考えると名所・旧跡・遺跡を見て歩く事そのものを 目的にするのではないと思うのです。そうゆう旅はお勧め出来ないです。 それなら東京で 楽しいもの見たり・聴いたり・食べたりする方がよほど身になると思います。

日常を離れてリゾートで寛ぐ、これは一つのあり方でしょう。 僕にはあまり縁が無さそうだけど。

僕のイメージの中の旅は、そこに生活する人の生活を垣間見、出来れば多少なりとも袖振り合えまた 去っていくと言うもので、多分二度とは会う事の無い人たちとのたくさんの邂逅が想い出を積み上げ 自分の人生の春秋を豊かにして行くのだと思っています。あなたにもそうゆう旅を経験して 欲しいなー、台北でも観光名所と言うのは有りますが、そうゆう所より市場や屋台、故宮、 Pubや僕の友達など、多分ツアーではまず行かない所を案内したつもりです。

さて、中米各国の首都というのはいずれも小さくて、大都会と言えるのはメキシコ・シティー だけです。 グァテマラ・シティーの官庁街、ビジネス街、商業地区、歓楽街の大きさと言った ら、台北の十分の一以下と想像して下さい。

まずちょうど同時期に休暇に出ている隊員と待ち合わせてティカルへ向かいました。 良く教科書に出ていたマヤのピラミッドです。 20人乗りほどの飛行機に乗るのですが、これが2〜3ヶ月前に飛んでったまま帰って こなかったと言う会社のやつでジャングルの上を飛びながらびびりまくりでした。

ペテン湖と言う湖のそばに有るフローレスと言う町に降りて、湖に浮かぶ周囲400m程の 島のホテルと言っても5−6部屋しかないんですがに部屋を取りました。 この島は何年か前の 地震で3−4m沈んでしまって、ホテルの一階は実は何年か前は2階だったのです。

熱帯のジャングルの真っ只中の湖に雷がやって来てスコールとともに日が暮れていきます。 島のTaberna(メシ屋)でランプの灯りの下で食べた鹿のステーキのDiner、こんな 景色がいくつも今でも時々フラッシュバックします。日本から見れば、日本人からすれば 世界の果ての場末の町のランプの下で飯を食っている自分がとても信じられない。

いまでもあれは夢だったんでないかい?と思う事が有ります。なんでしょうねあの高揚感は、 一年前まで普通の大学生だった自分が、そんなとこでそんな事出来てる充実感みたいなもの だったと思いますが、毎日が楽しくてしょうがなかった。そうゆう経験を3年もの間、 重ね続けたらとても今までの常識と思われた価値観では日本に帰ってこれません。

帰国後、国内で海外でヤバイ仕事を度々こなしましたが、なんとかならない事なんか無い もんだと言い聞かせやってきました。 なんともならない事はどうせなんともならなくなっちゃうんだからなんとかなるように がんばっとけばいーじゃーないですか。とお天気に構えるようになりましたね。それでいつも 何とかなってきたのです。

んな訳でー、これからティカルその後、アティトラン湖、メキシコシティー グアナファト、グアダハラと旅は続くのですがまだまだ長くなりそう なので今夜はこの辺で。

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