青年海外協力隊員として、80年代の後半に中米へ赴任した 「世界が君を待っている」の旅行記でおなじみのトシリン。 彼の旅のきっかけから、憧れの協力隊への道のり、そして旅へと続くお話の新連載です。

旅の初めはカリブから

旅のきっかけ−幼少からの憧れ

僕には物心付いてからしばらく、「旅」というものの記憶が無い。

家庭は平穏な暮らしだったが、皆で旅に出るほどの余裕は無かった。 何より父は仕事で忙しかった。 週末はいつも疲れ切っていて、 家でゴロゴロしながら囲碁や将棋をテレビで見るのを楽しみにしているような人だった。 母も保母を長く勤めたし、保母を辞めた後も常に何か仕事を持っていた人だった。

そのような勤勉な父母の元で育ちながら、家族で旅行に行く余裕も無かった理由が、 父の兄である叔父が外で作ってくる借財をせっせと返済する為だったということを知ったのは、 父の死後のことである。 しばしば聞かされる母の叔父への恨み言によってだった。

だから、旅と言えば修学旅行ぐらいしか知らない自分が、 本当に旅らしい旅を知ったのは、 後に海外青年協力隊として赴任したときに友人と一緒に出かけたカリブへの小旅行によってだった。

でも、どうして修学旅行からカリブへ?

子供の頃は病気がちでしばしば入院、小学校低学年は3分の1ぐらいしか出席してない。 そんな中、病院のベッドや病気で学校を休んだ独りの家で本を読み漁ることを覚え、 地図狂いになったり旅行記ばっかり読んだりしていた。 そして、小学校の5年の頃には外の世界に憧れる少年になっていた。

仲の良かった従兄弟の持っていたビアフラの写真集を見ては「アフリカを救おう。」と思い、 テレビでサントリーのコマーシャルを見ては「アフガニスタンで羊飼いになる。」と宣言した事もある。

ビアフラの写真集

このアフガニスタンで羊飼いに成る熱はかなり激しく、中学の進路のアンケートにそのまま書き提出した。 その頃は進学戦争真っ只中、毎週末学校で模試が繰り返されるような状況。 もちろん担任は親を呼び出し、お宅のお子さんはもっと現実を見ないと世の中乗り切れません!と説教した。 今は会えばケンカばっかりする母だが、 この時の担任とのやりとりだけは今も感謝している。

「本人がそうしたいんならしょうがないですね。」
みたいな事を言って、そういう回答を期待していなかった担任をかなり驚かせていた。

そのような経緯があって中学3年の頃には、 青年海外協力隊でアフリカに行くと言うのが自分の確定した未来だと思っていた。

その夢をかなえるために、農業高校を志すも、父親が高校は普通校の方が良いの一言で挫折。 しかし高校3年間志は曲がらず、 大学は青年海外協力隊に一番確実に行けそうな東京農業大学海外拓殖学科に見事合格。 と言えば聞こえは良いがこの大学名前が漢字で書ければ受かるだろうと言われていて、 模試で志望校にこの学校を書いたら、関東で一番になってしまい驚愕した覚えがある。 確かに入試で教室に入った瞬間合格を確信した。

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